遠距離通院で抗がん剤治療の質が落ちる理由

がんと診断されたとき、「できる限り良い病院で治療を受けたい」という思いはごく自然なことだと思いますが、抗がん剤治療(がん薬物療法)の特性を考えると、「遠くの名医」を選ぶことで、かえって治療の質が低下してしまう可能性があります。
「時間毒性」という考え方
近年、がん医療の世界で「時間毒性(time toxicity)」という言葉が使われるようになってきました。治療のために費やす時間そのものを毒性として数値化しようという発想で、2022年にカナダの腫瘍内科医Bishal GuptaらがJournal of Clinical Oncologyに発表した論文で有名になりました。*1
この論文では、外来受診の回数・待ち時間・移動時間・採血や画像検査のための通院回数などをすべて「患者が医療に費やした日数」として記録し、がん治療の負担を可視化しようとしています。治療によって延びた寿命や健康で過ごせる時間が、治療に要した時間によって相殺されてしまい、患者の日々の暮らしや人生そのものにとってプラスにならないことがある、というのが時間毒性の考え方の根本です。月に何度も病院に足を運ぶ生活がどれだけ体力と時間を奪うかは、実際に経験した人でないとわかりにくいですが、この視点は臨床での実感とよく合っています。
病院までの距離が長くなればなるほど、一回の受診あたりの時間コストは増えます。片道2時間かかる病院に月2〜3回通い続けることは、それだけで毎月丸一日以上が通院に消えていく計算です。
手術と抗がん剤治療のちがい
がん治療における「良い病院」を選ぶことの意味は、治療の種類によって大きく変わります。
手術は基本的に短期決戦です。入院して手術を受け、回復すれば退院します。腕の良い外科医のいる遠くの病院で手術を受けるという判断は、一定の合理性があります。特殊な術式が必要なケースや、手術件数が成績と相関しやすい部位では、実際に「どこで手術を受けるか」が結果を左右することもあります。入院期間は長くても、通院を要する回数は少なくて済みます。
多くの場合の抗がん剤治療はちがいます。外来通院で3週間に1回、2週間に1回というサイクルを数ヶ月から数年にわたって繰り返します。術後補助化学療法なら半年、転移や再発後の全身治療に至っては年単位での継続が前提になります。食欲不振や急な発熱で予定外の臨時通院を余儀なくされることも珍しくありません。この長期間を遠方の病院に通い続けることは、体力的にも金銭的にも、もちろん時間的にも相当な負担です。同じ「がん治療のために良い病院を選ぶ」でも、手術と抗がん剤治療では状況がかなり異なります。
最善に期待し、最悪に備えよ
病院選びのとき、ついその日の体調を基準にしてしまいがちです。「今なら片道2時間でも大丈夫」「家族が付き添ってくれれば何とかなる」「がんの治療がうまくいけば体調も上向いてくるに違いない」と考えることもあるでしょう。
しかし、今は通えていても、がん治療中にはどうしても体調に波があります。体調の良い時期は通えても、そうでない時に通えるかどうかです。自分では車が運転できないとき、家族が通院に付き添うことができないとき、発熱や下痢や痛みでしんどいとき、そんな日でも通える範囲の病院なのかどうか。「ベストな体調の日を基準に選んだ病院」が、治療の中盤から終盤にかけて重くのしかかってくることがあります。
遠距離通院が治療の強度を下げる
問題は体力的な消耗だけではありません。通院距離は治療の強度にも影響します。
抗がん剤の副作用は毎サイクル同じように出るわけではなく、蓄積とともに変化します。悪心・嘔吐、口内炎、末梢神経障害、骨髄抑制によって起こる発熱。中等度の副作用でも、対応が1〜2日遅れるだけでその後の生活の質に響くことがあります。さらに、病状の推移によっては副作用ではなく原疾患、つまり腫瘍そのものの進行による症状も加わってきます。治療のために使う薬の中には、眠気などが出るために自動車の運転を控える必要があるものもあります。
体調が悪くなったときに、近くに住んでいる患者さんなら「明日来てください」と言えるところが、片道数時間もかかる遠方の患者さんだと「ひとまず様子を見てください」「状態が悪ければ近くの救急を受診して、次回受診前に電話をください」とならざるを得ないかもしれません。担当医としては、それを見越して治療の安全マージンを大きく取る必要が出てきます。つまり、副作用を軽くするために治療薬の投与量を減らしたり、休薬期間を長めに設定したりすることが増えます。
これは個々の医師が「手を抜いている」のではなく、遠距離通院という状況が治療強度の維持を構造的に難しくさせているということです。血液検査の値が治療の決行か延期かの瀬戸際のときに、すぐ近くの患者さんであれば内角高めのギリギリインコースを攻めることができても、遠方の患者さんであればフォアボールが怖くてそこまで攻めた治療ができません。遠距離通院では「ヒヨった治療」「ヌルい治療」にならざるを得ない場面があります。
そう考えると、名医であれば遠くの患者にも同じ治療ができるというわけにはいきません。どんな医師でも、診察できないときに起きた副作用には対応の限界があります。がん薬物療法を行っている医師には、遠方から通院されていた方で、有害事象への対応が後手に回ってしまい、やむなく次サイクルを延期した、あるいは減量せざるを得なかったという経験が何度かあるはずです。どれほど念入りに準備をしても、丁寧に連絡を取り合っても、物理的な距離がある以上は限界があります。
抗がん剤治療の内容は病院ごとの違いが小さい
もう一つ大切なことがあります。抗がん剤治療における治療は様々なデータの蓄積などによって「標準治療」が確立され、ガイドラインとして発刊されています。それにしたがって病院を問わずレジメン(治療計画)が作成されており、使う薬と投与スケジュールが国内ではほぼ統一されています。
エビデンスに基づいた標準治療を行う限り、東京でも北海道でも九州でも、あるいは大学病院も地域の拠点病院も(がん薬物療法を日常的に行っている医師であれば)治療内容にそれほど大きな差はありません。治療の「腕」よりも、治療が正しいタイミングで正しい強度で行われているかどうかの方が、最終的な成績に与える影響は大きいです。
もちろん、特定の新薬開発の治験への参加や、ごく限られた症例に対応できる高度な専門施設が必要なケースは存在します。そういう場面ではあえて遠方に行く価値はありますが、それはかなり特殊な状況です。標準治療であれば、同じ県内の拠点病院で十分に対応できる場合が大半であることは間違いありません。
地元の拠点病院を選ぶコツ
地元でがん治療に力を入れている病院を探すなら、「国指定がん診療連携拠点病院」を起点にするのが現実的な方法です。国立がん研究センターのがん情報サービスのサイトで、都道府県別に検索できます。*2 都道府県がん診療連携拠点病院・地域がん診療連携拠点病院・高度型、と種別はありますが、いずれも一定の設備・体制・症例数の基準を満たしていることが指定の条件になっています。
自宅から通院しやすい距離にある拠点病院を選ぶことは、副作用への対応速度、治療継続の安定性、そして患者自身の体力温存という点で、遠くの著名病院を選ぶことよりも多くの場合に有利に働きます。
どのくらいの距離が「近い」でどのくらいが「遠すぎる」のかは、患者の体力・交通手段・家族のサポート体制によっても変わるので一概には言えません。しかし、少なくとも「いくつも県境を越えて通い続けることが最善かどうか、一度立ち止まって考えてほしい」ということはお伝えしたいです。
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*1 Gupta A, Eisenhauer EA, Booth CM. The Time Toxicity of Cancer Treatment. J Clin Oncol. 2022;40(12):1336-1338. https://doi.org/10.1200/JCO.21.02810
*2 国立がん研究センター がん情報サービス「がん診療連携拠点病院等の一覧」 https://ganjoho.jp/public/institution/pref_list.html
更新日:2026-06-24 閲覧数:55 views.